震災を受けたオンナを復興させよう
10月12日、オンナを訪れた。私たちの募金 は、55,000ユーロに達した。Onna ONLUS と合意し、地方観光振興機関と再建計画を決め、募金同様、このブログはそのために、役に立つと思う。
ラークイラから7キロの場所にあるこの街で、瓦礫を見た時の怒りと無力さの感じを表現するには、私の言葉は不十分だろう。そこでサマンタ・ディ・ペルシオの「Ju Tarramutu」から引用する。
"オンナにいるのは、好きだ。ここが私のふるさとで、家族もいる。私は家を再建し、その周囲のバラックも建て直した。一月から古い馬小屋の修理もしている。そこに小さな部屋を作ろうと思っていたのだ。小さな村の中に小さな村を作った。90年代、一部分を再建して、私の娘マリアパオラがそこに寝ていた。かなりたくさんのお金を使った。 [...] 私の父と私は、なぜかわからないけれど、家々がもたれあって建っていれば、大丈夫だと思っていた。しかし、息子のドメニコが寝ていた場所は、父ドメニコが住んでいた隣の建物に押しつぶされて崩壊してしまった。その父も亡くなった。
オンナの地震は、ひどいものだった。葬儀の日、チャンレンテ市長は、オンナのマグニチュードの最高は7だったと言った。私と妻が助かったのは、建物の中央部分が崩壊しないで残ったからだ。はっきり記憶に残っているのは、シェーカーのような音がしたことだ。1時まで、マリアパオラを安心させて、3時32分、地震が始まった。眼を覚ました妻抱きしめて、思った。「何か屋根の上に落ちた」 [...] 消防隊、地震学者たちが、私たちを落ち着かせたのだ。地震は、正式に、12月から始まった。研究所の副所長が、言うように、地震があるたびに、私たちはIngv に電話をし、毎回同じように破壊的な地震は起こらないと繰り返した。所長と課長はナポリ出身で、イルピニアの地震を経験している。だから、地震の後に断層がおこるという情報を流すように望んでいた。3ヶ月経って、もう冗談を言うしかなくなっていた3月の末、私は新聞に一文を載せた。「安心して夜眠れない人は手を挙げてください」。そのころは、もう地震があるからではなく、その強度についてマグニチュードの当てあいになっていた。
これより悪くなるとは考えない。だから私たちは記憶力が悪いのかもしれない。マウリツィオ・デ・ジャングレゴーリオの本には、1800年に、すでにラークイラは危険だったと書かれている。
私たちは3月31日の危険委員会の報告、市長、評議員の報告を待っていた。新聞は、地震の回数、強度、いつ、どこで地震があったかの数字を載せるために1ページをあけていた。にもかかわらず、「大丈夫です」。今、多くの断層が発見され、その中にパガニカのものも含まれる。それは余り研究されていなかった。専門家たちは、これらの余震が、大地震につながるかもしれないと言うべきだった。鉄筋コンクリートの家であれば、耐震かもしれないが、石の家では、注意が必要だ。そのような警報がされていたら、家の外で、車の中で眠ることも考えられただろう。情報提供者として、正しい情報を受けていなかった私は、人々に適切な情報を与えられなかった。そして逆説的なのは、私地震が最初の犠牲者だということだ。
専門家や地元当局はどこで何をしていたのだろう。市長は消防のトップだ、良くも悪くもできる。なぜ市が何も言わないのだろうと常々思っていた。それで副市長のリーガに、たずねた。「このところの余震がひどいので、避難の計画はあるのか」と、彼は、「はい」と応えたので、私はさらに「地元の情報手段をすべて使ってやりましょう」と言った。すると彼は、「記者会見は出来ない。会見をすると警告を発したことになるから」と言った。
新聞の読者はこの時期、私に聞いてきた。一人は、4月6日の3日前に電話をしてきた。ペッティノの住人は、私に言った。「この連続して起こる余震について何も言わないのは、おかしいではないか。どこに避難したらいいのだろう」。私は市にまた問い合わせたが、返事はいつもと同じだった。
オンナの友達も、私にたずねていた。 ルアーナが、私に何度も電話をしてきた。2歳の女児のことを心配して。彼女は瓦礫の下になってなくなった。ガブリエラには、ある日家の前で会った。同じ質問をしていた彼女も亡くなった。多くの人命が犠牲になったのだ[...]
ラークイラを再建することは、屋根を与えることだけを意味するのではない。絶望させるのは、自分のもの、自分が属していたあの街角、色、匂いを見つけることがもう出来ない、ということだ。オンナでも、再建しても、絶対に同じ街にもどるわけではない、新しい匂いがするだろう。木造の建物が作られたら私もそこへ、入るだろう。そして自分の家を、前にあった場所かどこか違う場所、とにかくオンナに作る可能性を探すだろう。
[...] 他の人同様、地震は私からすべてを奪った。身内の葬式を挙げることもできず、ピッツオ-リの墓地へ葬った。パガニカは使えなかったから。子供たちがいないという事実は、私ももう、存在しないことと同じだ。生き延びることは、難しい。生きる意味を見つけなければならないから。すべてのことが、どの場所にいても、彼らを思い出させる。書いたことすべて、子供と父のことを思いださせる。唯一すべきことは、彼らを何らかの形で追悼することだ。
親でいるということは、心の奥底の事柄であるので、もう親でなくなるということは、何にも取って代えられない。
by Beppe Grillo 17:50 嘆きの壁
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